宝物は自分で見つけよう!

最近はちょっとしたこともネットを探せば答えが見つかることの多い世の中。
どのように調べるかはその人のセンスの問題が絡んでくるわけで、見つからないで文句を垂れる人や、人から聞いてイージーに済ます残念な人も少なからず存在します。
努力したり工夫したことで、それをしない人との差がつくのは当然だし、そうじゃない理不尽なことでも不公平なことがたくさんあるのがこの世の中。
公平なのは人は何れ死ぬということだけなんじゃないかと思います!
ネットで情報が拡散することが容易い状況になる前は、いろんな情報を握る人が、その情報をある人に開示したとしても、その影響はその人とのその周辺に留まるで済みました。同じことをネットでやってしまえば、画面の先には数えることが困難なほど多くの人々に情報が伝わる社会。
本人は素晴らしい情報を広めたという認識でいるのかもしれませんが、その情報は瞬く間に蔓延し黙認されていたものが、もう看過できない状況に陥り、挙句の果てに制度改悪に結び付くという事例は枚挙に暇がありません。
とっておきの情報を周りに知らしめたいという欲望には抗えないのでしょうが、その情報の全部を知らせる必要はないと思うのです。存在があるということを匂わせる位に留め、そこから先は自ら調べていくべきだと思います。
受け手側のリテラシーが低いがゆえに、これを拡散していいかどうかの判断がつかないから、その先にもダダ洩れという目も当てられない状況を招くわけです。
送り手も知らせたいという欲望を自制心をもって対応しないといけないように感じます。
あけっぴろげにして不利益というブーメランを被るのは自分自身であることをもう少し意識しておかないと、これからもちょっとした楽しみとか美味しい思いというのは次々と封じられていくように思います。
僕が飛行機に乗って頻繁に旅行に出るのも、あらゆる情報を調べ、使えるかどうか検証を重ね実行に移しています。これを一般的に出回る情報をベースにやっていると当然ながら続けることなんか困難です。
情報という種を育てて実として、それを美味しくいただく。
いろいろ苦労して育てたがゆえに、それを味わう時間は格別になるんだと思います。
かねてから思っていますが、0と1しか認識しないデジタル的な今の世の中。
0~1までの間の細かな違いを認識できるアナログさがそういう世の中にあって大切な要素だと思っていますが、いかがでしょう?
宝物は自分で見つけないと楽しめませんし、誰かが見つけたものは、果たして宝物と呼べるのでしょうか?

Kazu について

飛行機のこと、音楽のこと、京都のこと・・・ 毎日の生活を備忘録代わりに綴っています! たまに毒を吐くこともあります・・・
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